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3.11から10年─── 東日本大震災での記憶と学び TMAT隊員らがオンライン座談会

2021.03.16

3.11から10年───
東日本大震災での記憶と学び
TMAT隊員らがオンライン座談会

三陸沖を震源とする巨大地震の発生、それにともなう津波や原発事故など未曾有の災害となった2011年3月11日の東日本大震災。NPO法人TMAT(徳洲会医療救援隊)は発災直後から活動し、とくに津波被害が甚大な宮城県と福島県の沿岸地域で約2カ月にわたり医療支援を行った。総派遣者数は計903人。あの震災から何を学ぶべきか。丸10年が経った今、支援活動に参加した隊員ら7人に、当時の活動を振り返ってもらうとともに、今後の災害対応について語り合ってもらった。

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TMAT隊員らがオンライン座談会

――まず東日本大震災でのTMATの活動概要と、初動について教えてください。

野口●発災当日の3月11日から5月3日まで活動しました。最初に仙台市に入り、その後、情報収集するなかで宮城県の気仙沼市、南三陸町、岩手県大船渡市で支援を展開しました。主に当該拠点での診療と、その周辺の巡回診療を行いました。総派遣者数は903人、総診療数は1万5677人に上りました。派遣者の多くは徳洲会職員ですが、災害の規模が非常に大きいため、急きょ応援者を募り海外からの医師や徳洲会以外の医療従事者が100人以上活動しました。先遣隊として最初に出動した栁澤さんは当時の状況を覚えていますか?

栁澤●仙台徳洲会病院と連絡が取れないということで、3月11日の午後4時半頃に当院から私を含め医師ら3人が出発しました。通常、3~4時間で着きますが、停電で暗闇のなか道路の亀裂もひどく、到着したのは12日の午前2時半頃でした。院内の明かりはランタンを使用し、病棟フロアは水道管の破裂で水浸し、入院患者さんは下の1、2階で床に雑魚寝の状態でした。

奥の医事課に行くと、大勢の職員が静まり返るなかで作業していたのを覚えています。それまで防災訓練などを通じ、入院患者さんを避難させる「病院避難」については知っていましたが、まさか、それができない状況に置かれることがあるとは思っていませんでした。

野口●12日に東北、関東、関西圏の徳洲会病院から60人以上の支援者が合流し、1日で仙台病院の機能が回復しました。

橋爪●指揮を執るために、3月12日に出張先の沖縄から都内のTMAT本部に入りましたが、その時点では現地での人の出入りが管理できていませんでした。

900人を超える隊員らが医療を通じ被災者を支援900人を超える隊員らが医療を通じ被災者を支援

野口●確かに、東日本大震災での活動で最大の課題は支援者の移動・管理でした。公共交通機関が動かず、車を運転しなければ被災地に入れない状況でした。そのため毎晩、マイクロバスで東京―仙台間を往復し、仙台から各支援先への移動は救急車を使用しました。人員の管理については6日間のローテーションを組み、チーム単位ではなく派遣者ごとに入れ替える仕組みを構築しました()。スタッフの健康面に配慮しつつ、メンバーの顔ぶれをできるだけ変えないことで、活動の継続性と安定性の担保に努めたのです。この仕組みは特徴的でした。

――その後、13日から本格的に支援活動を展開していきます。

野口●津波の被害が甚大な宮城県と福島県の沿岸地域を調査し、とくに医療ニーズが高かった気仙沼市を活動場所に選定しました。

髙力●仙台市内も相当ひどい状況でした。仙台病院の機能回復を図っている頃、後から現地入りした私と河内先生は、情報収集を兼ねて仙台市内を見回りました。所々に埋まっているご遺体、消防車と救急車しか走っていない道路、路肩に転げ出ている缶ジュースを拾う人たち……。こんな光景を日本でも見るのかと、正直おじけづきました。それでも小学校に日赤の医療チームが入り、炊き出しなども始まっていました。

河内●髙力先生とTMATの活動拠点に戻ったら、気仙沼に調査に行った栁澤さんが血相を変えて支援の必要性を訴えていたのをよく覚えています。

栁澤●がれきの山をはじめ衝撃的な光景を目の当たりにし、動揺していました。調査で訪れた総合体育館には避難者が押し寄せ、けがをされている方が当たり前のようにいる。それまでの避難所のイメージとは異なり、インパクトを受けました。近隣の気仙沼市立病院も患者さんの受け入れで飽和状態にあったため、総合体育館を市立病院の後方支援施設にしたいと考えたのです。

野口●当時は被害の全容が見えず「どうする?」と、どこかとまどっている雰囲気がありました。しかし、気仙沼の報告と、その頃に徳田虎雄・徳洲会理事長(現・名誉理事長)から「徹底的に活動しなさい」という趣旨のメッセージが届き、一気に皆の気合が入ったように記憶しています。気仙沼での支援を決定し、すぐに出発しました。すでに日は落ち、現地の状況もよくわからないのに、そう判断したのもTMATらしいですよね。

河内●ところが、気仙沼の災害対策本部を訪れ、本格的に総合体育館で活動する旨を私が伝えようとすると、急に横から人が現れ、同じ市立の本吉病院の医療が崩壊していると言われました。「医師もいない、誰も来ない」と腕を引っ張られ、そのまま付いて移動すると、山のなかにもかかわらず、津波の被害を受け孤立していました。状況から、同院に資源を投入しようということになりました。

髙力●この病院で夜間仕事をしているスタッフの姿は強烈に印象に残っています。思い出すと、今でも目頭が熱くなります。

発災から3日経っても自分の家族にすら会えていない方たちが、不眠不休で対応していました。あるスタッフは「自分の旦那が生きているかわからないけど、家に帰ることはできん。患者さんがここにいるから」と言いました。その病院の事務長は泊まり込んでいました。自分だったら、ここまでできるのかと圧倒されました。

機動力・組織力・受援力生かし4カ所で同時支援

栁澤・看護師長(右)が気仙沼の状況を河内副院長(右から2人目)と髙力院長(その左)に説明栁澤・看護師長(右)が気仙沼の状況を河内副院長(右から2人目)と髙力院長(その左)に説明

――同じ頃、気仙沼市の階上中学校と南三陸町、岩手県の大船渡市でも並行して支援活動を展開しました。

橋爪●指揮を執るなかで、4チームが動けるとわかったので、4カ所での活動を決めました。とにかく人が手薄なところに行くよう指示したのを覚えています。

野口●階上中学校で活動された原田先生は当時、米国の大学院生でした。

原田●当初は医療支援をするなど考えていませんでしたが、徳洲会幹部の先生のご息女が米国で放射線科医をされていて、知人から紹介されたのを機にトントン拍子で支援の話が進展しました。米国にいた日本人医師らとともに帰国し、TMATと一緒に支援することとなりました。合流して初のミーティングの時に、ピリピリした雰囲気のなか、野口さんが「アメリカチームはどこにいるんですか!」と少し強い口調で言われ、「私たちです……」と、そっと手を挙げたのを覚えています。

本吉病院は河川津波(川をさかのぼった津波)で1階が浸水。泥跡が恐ろしさを表す本吉病院は河川津波(川をさかのぼった津波)で1階が浸水。泥跡が恐ろしさを表す

野口●「米国から支援チームが来る」と聞いていたので、まさか日本人の方が来られるとは思っていませんでした。

原田●その後、米国人医師も加入しました。日本の医師免許はもっていませんでしたが、TMATが厚生労働省に働きかけてくださり、応急処置ならと臨時で診療行為を認めていただきました。私が日米の看護師資格を取得していることから、通訳も兼ね一緒に健康チェックなどを行いました。

野口●1300人くらいの方々が避難し、さらに増えるということで避難所の設営も行いましたよね。階上中学校には河内先生も入りました。

河内●合流した時は米国チームが帰国される頃で、すでに完成された仕組みのなかで活動しました。先遣隊として何もないところから活動する機会が多い私にとって、新鮮でした。

野口●この経験をされた後、原田先生は災害医療分野の道に進まれ活躍されています。

原田●TMATでの活動は原体験で、今の活動はその延長線上だと思っています。講演などで防災の仕組みを説明する時に、よく〝受援力〟の話をしますが、TMATはその力がとても高いと思います。初めてかかわる人でも快く受け入れ、臨機応変に活用する。大規模災害で組織の機能を、より発揮する要素のひとつに受援力の高さがあると、TMATを見て実感しました。

津波で流された車が集合住宅の屋根の上に(南三陸町)津波で流された車が集合住宅の屋根の上に(南三陸町)

野口●鈴木先生は4月に入って南三陸町で活動しました。

鈴木●当時は初期研修を終えて間もない脳神経外科医で、災害医療支援のことはまったくわかっていませんでした。ただ、出身が青森県八戸市のため、居ても立ってもいられず派遣を希望しました。被災地では主にかぜ薬を配布したり、イスラエルからの支援チームに患者さんを紹介したりする役割を担いました。時には診療も行い、初めて破傷風の方を診る経験もしました。

野口●鈴木先生は今やTMATで中心的な役割を担い、診療面だけでなく避難所の環境整備にも積極的です。当時の避難所の環境はいかがでしたか?

鈴木●トイレは不衛生、食料など支援物資は避難者がいるスペースの中央にポツンと置かれ、避難者は床に雑魚寝でした。発災から3週間経ってその状態は、今では考えられません。そう考えると、10年経った現在は、だいぶ改善されたと思います。

栁澤●当時は避難者のゾーニング(区分け)すらできていませんでした。

橋爪●大船渡での活動は当初、野口君と意見が合わず、支援までに少しタイムラグが生じてしまいました。

野口●医療チームとしてのメンバーがそろっておらず、その時に行く意味はあまりないと考えたからです。ただ、それでも行ってもらい情報を集めたことで、その後にメンバーがそろってからの活動がスムーズでした。以前から橋爪先生などが早く人を行かせる重要性を指摘されていましたが、その意味がわかり反省しました。

基本的なスタンス変えずニーズに応じさらに進化

各地で巡回診療を実施(南三陸町)各地で巡回診療を実施(南三陸町)

――最後に、東日本大震災からTMATが学んだこと、今後やらなければならないことは?

栁澤●ひとつは仲間づくりです。東日本大震災後、TMAT主催のトレーニングに国内の災害コースが創設され、ベーシックコースとともに受講生が増えているのは良いことだと思います。もうひとつは医療と福祉をうまく切り替えられる組織になれたらと思っています。最近は水害など災害のタイプも変わりつつあり、医療よりも、むしろ福祉で困っているケースが多い気がします。医療と福祉を瞬時に切り替えられる、橋渡し役などが担える組織になれたらと考えます。

鈴木●確かに、診療よりも福祉や保健衛生の側面が求められる傾向にあります。ただ、それも含め、被災者に近い場所で活動するTMATの方向性は、絶対に間違っていないと思うので、大事にしてほしいです。

野口●東日本大震災でも医療以外のニーズにいかに対応していくのかが突き付けられた災害だったと思います。

髙力●避難者が日常生活に戻っていく過程で、細かいニーズに対応していけば良いのではないでしょうか。その意味では避難所の運営もひとつでしょう。

海外や徳洲会グループ外の多様な医療者と共に支援海外や徳洲会グループ外の多様な医療者と共に支援

橋爪●ニーズに応じてスタイルが変わっていくのは必然です。プライベート(民間)チームの良さを生かしてほしいです。

河内●ニーズについて言えば、国内と海外で違いが出てきたのかもしれません。海外の災害医療支援では、従来の外傷診療ニーズも多いはずです。あとは後進育成が大事で、東日本大震災にしても、それを体験していない若い隊員たちに、いかに伝えていくかが重要だと思います。

橋爪●その意味で、TMATはとくに若い人に大きな体験の場を与えられる組織であってほしいと願います。体験は大事です。TMATでいろいろな体験を積み重ね今の僕らがあります。原体験があるからこそ高い志、熱い心をもった人が育つと信じています。

原田●外部から見ると、TMATは〝小回りが利く大きな象〟のようです。徳洲会グループを母体とした大きな組織力、救急医や外科医を中心とした総合力、さらに高い機動力ももち合わせています。最近はいろいろな災害支援チームが生まれていますが、TMATのような三拍子そろったチームは他にありません。

今後、さらに価値を上げるとすれば、河内先生の言われるように国内と海外で活動する場合の機能分化やスペックの整備を進めることが挙げられます。また、DMAT(国の災害派遣医療チーム)やJMAT(日本医師会災害医療チーム)など他の重要プレイヤーとの関係強化に取り組まれていると思いますので、それを活動に還元していくことが大事だと感じます。

そして、もうひとつは受援力です。今後、南海トラフ地震が起これば、海外からの支援を受け入れざるを得ないと思っています。国際的な支援を受けるための受援力をTMATに期待しています。

トモダチ作戦により米軍へり「ブラックホーク」から支援物資もトモダチ作戦により米軍へり「ブラックホーク」から支援物資も

また、これは報告ですが、皆さんが支援に入った本吉病院は現在、訪問診療を始めるなど気仙沼の地域医療を担う活動をしています。ほかにも、階上中学校に避難していた高校生が救急救命士になるなど、この10年で地域のレジリエンス(回復力)を見せてもらっています。

野口●その救急救命士の妹さん(当時、小学校6年生)は、臨床検査技師になり、現在、徳洲会の病院に勤務しています。TMATの活動に参加しようと、知識・技術の習得に励んでいますよ。

橋爪●これまで皆さんの話を聞いて、1995年の阪神・淡路大震災を思い出しました。当時は私も皆さんのように被災地で支援活動を行い、TMATはそこから発展してきました。今後も〝生命だけは平等だ〟の徳洲会の理念を実感、再認識できる組織であり続けることを願っています。

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